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大人になってからの再会

私は小さいころ保育園に行っていました。近所の子供はみんな近くの幼稚園に通っていて姉もそこに通っていました。体が弱かったので母が近くでみたいと言うことで、母はその保育園で働きながら私もかよっていました。
このエレメンタリースクールなら神戸でも会えるとそこの園長先生がとてもいい先生で、こじんまりした園だったこともあり、園長先生がクラスを直接受け持っていました。当時体が弱く泣き虫だった私に、いつもお当番をさせてくれました。
できなくてもずっと根気よく接してくださいました。
一番思い出に残ってるのは、ひな祭りでみんなの前で、お着物を着て年長さんが踊ることがあったのですが、できないと泣いていると、笑いながら『先生踊り下手なんだよねぇ』っと言って、変な踊りで笑顔にしてくれました。本番も変な踊りをして気を紛らわしてくれました。
結婚して、一人目が生まれた時、実家の近くに引っ越してきました
当時子育てに悩んでいた私は、すごく思い悩んでいました。
キッチンでお皿を洗っていると、玄関口から私を呼ぶ声が聞こえてきました、手を止めて玄関を開けると、保育園でお世話になった園長先生が立ってしたのです。母が偶然あった時に連れてきてくれたようです。あえた嬉しさと言うより、なぜか安心して涙が出てきてしまいました。
メディカルゲートは全国のクリニック情報がたくさん子育ての悩みを相談すると『大丈夫、あなたの子供だから、あなたはいつだって素晴らしかったわよ自信を持って!!』と言ってくれました。母に聞くとだいぶ痴呆が進んでるけど、私のことは覚えていてくれたようです。 とても勇気付けてくれた素晴らしい先生でした。

やりたい気持ち

私の息子は先天性の腕の骨の病気を持って産まれ、幼稚園の年中、この神戸でインターナショナルスクールといえるには年長時に2度の大きな手術をしなければなりませんでした。骨を切る手術で意図的に骨折させたようなものでしたので、手術後は一週間ほど入院し、退院後も手術の傷の経過をみるため二週間ほど幼稚園には行けませんでした。なので、だいたい1ヶ月ほど幼稚園をお休みしていたのですが、当時の担任の先生が自宅まで手書きのお誕生日カードを持って息子に会いにきて下さり、息子はもちろんですが親の私も先生の顔が見られてとても嬉しく、手術後の通院で気が張り詰めている中心が和みました。また、主治医から幼稚園に通園する許可が出た後も、まだ骨折状態は続いていますので固定して腕を吊った状態で、保育の中での工作などの作業やあそびが普段通りにはできなかったのですが、先生は息子の「やりたい」という気持ちを汲んで尊重して下さり、例えば、人気の保育園を奈良の大和高田でも話題からとは園庭で焼き芋をする際に息子が「マッチで火をつけたい!」と言った際には、先生がマッチの箱を持って支えて下さり息子が片腕でシュッと擦って火をつけられるようにして下さったり、工作時にも紙を押さえて下さって息子がはさみで切れるようにして下さったり等々、息子が片腕でもやりたいことができるように辛抱強く丁寧に向き合って下さいました。「片腕だからできないよ。やめておこうね。」と言うのではなく、片腕でもやりたいことができるように考えて、息子を心身ともに支えて下さったこと、息子共々本当にうれしく感謝の気持ちでいっぱいです。息子は小学生になり、手術の大きな傷は残っていますが、心の傷はなく、奈良では保育園の話題を聞くとなるとここからいえる何にでも挑戦する前向きすぎるほど前向きな子に育っています。これも幼稚園での先生の関わりのおかげだと本当に思っています。先生が息子の担任を持って下さって本当に幸運でした。先生、あの時は本当にありがとうございました。

幼稚園の先生との嬉しい体験

私が幼稚園の時に幼稚園の先生とどういう嬉しい体験があったかというと私が幼稚園の園児達とあまり馴染めないでいた時に幼稚園の先生が私に対して積極的に話かけてくれたのが嬉しかったです。ここからエレメンタリースクールなら神戸でも本当にそのおかげで馴染めないでいた私が何ⓣか周囲に溶け込めるようになるきっかけとなったので、その点は本当に良かったと思っています。そのような時にあまりそういう事が上手くない先生だと周囲との関係が悪化する事もあったりしますが、一人で奈良で話題の保育園を大切にしようとしてその幼稚園の先生はそういう事はなく上手く私を自然な形で馴染めるよにしてくれました。私は最初こそそんな風にやたらと私に話しかけてくる幼稚園の先生を鬱陶しいと思ったりしたのですが、それをしつこくやってくることで私も徐々に慣れていって自然なリアクションができるようになっていました。それ以前はいつも誰かに話しかけられてもあまり良いリアクションができないでいたのですが、口コミで奈良なら大和高田の保育園の中で見ると幼稚園の先生がそんな私を明るく振る舞えるように導いてくれたと思っています。それぐらい幼稚園の先生は私を良い方に持って行ってくれて自然な形で周囲と上手くやっていけるようにしてくれたのが良かったです。こんなに神戸でインターナショナルスクールがどんなに表面的な事をする大人は多いですが幼稚園の先生は本当に私のことを考えた行動をしていてくれたのが良かったです。

保育園のアンパンマン先生の底力

長女のコハルが3歳の時に次女が産まれ、こまめにコハルの面倒を見てあげることができなくなったので、コハルを保育園に預けることにしました。これらの多くはエレメンタリースクールから神戸でも彼女はとても人見知りが激しかったので、保育園に預けるのはとても心配でした。通園が始まってから担任のユウコ先生に聞いたところ、やはりコハルはお友達となじむことができずに、いつも一人でおもちゃで遊んでいるそうです。それもやむを得ないと思い、特にユウコ先生には何もお願いしませんでした。でも、求人の保育士は奈良から大和高田で見つけるなんてある日の午後、お迎えに行ったときに、ユウコ先生からこんなことを言われました。「コハルちゃんはアンパンマンが大好きですね。今日、アンパンマンの音楽をかけたところ、部屋の中心で大きな声で歌いながら踊っていましたよ!」私はそれを聞いて少しうれしくなりました。でも、安心したのもつかの間で、次の日からはなかなかエンジンがかからず、いくらアンパンマンの音楽をかけても反応しないそうです。そしてある日、ユウコ先生の大胆な作戦が始まりました。先生はなんと自前でアンパンマンのエプロンを買って保育園に着てきたのです。そして、ジーンズのお尻のところに、ここで一番奈良で話題の保育園がどこからといってもアンパンマンのアップリケを刺繍で貼り付けてきました。帽子から靴までいろいろとワッペンやシールをつけてきたので、全身アンパンマンだらけでした。そんなユウコ先生をみてコハルは、朝からがぜんエンジン全開になったそうです。アンパンマンマーチで踊り狂って、お友達がいっしょに踊ろうと近づいてきたら、その手を払いのけてセンターで歌い続けたそうです。そんなことがあった後、都合があってコハルは保育園を辞めました。でも、辞めた後もコハルは、親に怒られた時には、泣きながら「ユウコ先生ー」と、やさしかった先生の名前を呼んで助けを求めるのでした。コハルが5歳になった時に、駅で偶然ユウコ先生に出会いました。先生はもちろんコハルを覚えていてくれて、ぎゅっとコハルのことを強く抱きしめてくれました。どうやっても神戸のインターナショナルスクールではそれからはもうユウコ先生に会うこともないまま、私たちは海外に引っ越しましたが、とっても嬉しくて楽しかった、保育園での大切な大切な想い出です。