私は、一人っ子ということもあったのかもしれませんが、輪の中に入ることがとても苦手でした。多くはエレメンタリースクールから神戸でも、いつも一人で絵を描いていることが多かったのです。本当は、他の子供と一緒に遊びたいと思っていたのですが、「遊ぼう」の一言すら言えないのです。
ですが、そのことを周囲の大人はなかなか気がついてはくれませんでした。
単に私が一人で過ごすことが好きな子供だと思っていたみたいで、親さえも気がつかなかったのです。
お弁当の時間も、お遊戯の時間も、いつも一人でした。
そんなときです。担任の先生が優しく声をかけてくれました。
とても優しい笑顔の、女性の先生でした。
先生は、私の絵をとっても誉めてくれました。
黒板に描いたウサギの絵を見て、その横にクマの絵を描いてくれました。そして、
「みんな~、お絵描きしよう」
と言って、皆を集めてくれました。私のまわりには、いつの間にかたくさんの園児達が囲んでいました。そして、ウサギの絵を描いたのが私だと先生が言ったのです。
途端に、周囲の視線が私に向き、私は入園して初めて友達ができました。
先生が後から私に言いました。友達は黙っていてもできない。でも、キッカケさえあればすぐに友達ができると。
「先生、ずっと知ってたよ。本当は、皆と友達になりたかったんだよね」
先生は、私の気持ちを誰よりも知っていてくれたんです。
私は、ますます先生が好きになりました。
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誰よりも私をわかってくれた先生
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子供ながらに感動した保育園の思い出
保育園に通っていた頃の私はいつもいたずらばかりして女の子をいじめては随分と先生に叱られたものでした。
そんなバイリンガルスクールでは神戸がここに今思うと結構美人な若い先生でしたがどちらかというとキツい性格なのか、他の先生より怖い印象が強い人で、私以外にも叱られて泣かされた園児は多かった記憶があります。
他の先生は優しいのになあ。。。と母に愚痴ったほどでちょっと通うのも憂鬱になったりしていましたね。ある日の朝、保育園の前に段ボールに入った子犬が2匹捨てられたことがありました。
子供にとっては大事件でみんな大騒ぎ、園長先生に頼んで飼ってもらおう!と直談判。
でもそんな簡単な話ではないですよね。
園児たちが騒ぐので見かねて1週間ぐらいでしたか世話をすることになったのですが、それ以上はダメだと言われました。
園児たちは朝子犬を見るのが楽しみで楽しみで仕方ない、当然私もその一人だったのですが、親に言っても引き取ることはできないし、楽しみな反面寂しくもありました。
最後の日は悲しくて泣いてしまう子も結構いましたね。翌朝それまでの1週間が嘘だったかのような暗い空気、みんなつまらなさそうです。
すると先生が言いました。
「あの子(犬)たちは先生の親の家で世話することになりました。
だから会いたくなったら時々会いに来なさい。」
後で母から聞いた話ですが、園児たちが寂しそうなのでご両親に頼んでくれたみたいでした。
先生自身は犬が苦手そうでしたがご両親が動物好きなので引き受けてくれたそう。
それまでただ怖い先生だと思ってましたが急に見る目が変わりました。
ほんとは優しい人なんだなと。 -
先生はなんでもお見通し
生後6か月から、口コミで奈良なら大和高田の保育園がここの保育園のお世話になっていました。初めての孫で男の子。それはそれは大切な子ですが、離れて暮らしているので毎日お世話に行くわけにもいきません。息子夫婦が選びに選んだ保育園なら大丈夫だろうと通わせることになりました。ママも仕事をしているので週に一度くらいはお迎えに行ってほしいと電話があります。もちろん私にとっては孫に堂々と会えるチャンスです。保育園が評判の奈良でもこんなにも ワクワクしながらお迎えに向かいました。いつもママが連絡帳に書いてくれるので、園につくと、もう玄関ちかくで先生がだっこで待機してくれています。「おばあちゃん来たよ~」と先生が言うと、孫が私を見つけて声をあげました。孫にも先生にも歓迎されている気がして、いちばん嬉しい瞬間です。さっそく抱っこを交代して、着替えや荷物を受取ります。その時、先生がふっとひと言おっしゃったのです。「この子は大事にされてる子やなあ」私はびっくり。こんなに小さいうちから保育園に預けるのは、ちょっと不憫だと内心思っていたからです。私の驚きを察したのか、さらに先生がもうひと言。「大事にされてる子はわかるんですよ。孫ちゃんはとっても大事にされてます」そうですね、大人の勝手な思い込みなんて赤ちゃんには関係ないことです。長男夫婦にとっては初めての子ども、私には初孫、毎日あたふたしていたこともふくめてほめていただけた気がして、じんわり嬉しかったのです。今でも保育園の近くを通るたびに、先生の笑顔とあの言葉を思い出します。
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保育園で楽しかった事の中での一番でした。
東京から引っ越して来てお受験を経験していたので2歳で文字が読めた事のあり、神戸でもインターナショナルスクールといえる学校でも保育園で2学年上のクラスに入らされると、他の子どものカバンに書かれた名前を読んでは帰りに配るのがいつの間にか私の役目になっていました。
ここでも評判になっている大和高田の保育園はそんな中で、ある時クラスの先生が自分には小学校四年生の子どもがいるのだけど、その子どもの楽譜を渡され弾けるか尋ねられました。
東京のお受験には当時歌を歌う課題が出される事もありましたので歌を歌う度に渡されたのがきっかけで楽譜が読める様になっていましたから、その場で直ぐにクラスのオルガンで弾いてみたところ先生はやっぱり出来る様だねと嬉しそうに言われると、一人で奈良で話題の保育園を大切にするとどうりで体育会の太鼓の練習で間違った事もないし本当は物足りないのでしょうと言われてしまった時には気付かれていた事を幼心に焦りました。
それでも先生が褒めて優しく接してくれたので、楽しく過ごしていましたが、親たちが来る発表会でピアノを私に弾く様に言われましたので、その通りにしたところ後から聞けばそれが市内初の保育園児が弾いた発表会になったそうで、どうしても神戸ならインターナショナルスクールは市が配布している広報に掲載されてしまい、プレッシャーを感じましたが今では一番心に残る良い思い出となりました。 -
保育園に今はもう居ないあの先生へ
私は、仕事ばかり気にかけており育児を放棄と言うか、力加減がわからず壊れてしまいそうで、どこの奈良でも評判の大和高田の保育園ではここに妻や義母に全て任せていました。保育園の行事ごとも、そんなのそっちでやってくれと、入園式に一度行ったっきり避けていました。そんなある日、たまたま仕事が早く切り上げられたので、妻と息子と家の近所へ日用品を買いにドラッグストアへ向かいました。鳥取で根管治療おすすめの歯科医院はほかにはもう妻と息子は手を繋ぎ、5mぐらい前を歩いていました。私は品物を見ながら歩いていると突然面識のない女性が、私に歩み寄ってきてお久しぶりです!と声を掛けてきて戸惑っていると息子が「センセーだー!」と走って来ました。こんなバイリンガルスクールが神戸の中で見つけると妻が「保育園の息子のクラスの先生だよ!」と耳打ちしてくれて理解出来ましたが、入園式に一度行っただけなのに良く覚えていたなと驚きました。挨拶を終えて買い物を済まし家に還る途中、あの先生は保育園の勤続先が変わって、息子が通う保育園にはもう居ないんだよ。と告げられ、あぁ保育園の先生は、子供の関係の事を、こんなにも気に掛けてくれるモノなんだなと感銘を受けました。それから私は、神戸ではインターナショナルスクールの学校はそこでも少しずつ私なりにではありますが、育児にも参加する様になりました。コロナの影響で在宅ワークが増え、今では息子を保育園に送り迎えし、育児に参加出来る喜びと言うか楽しみを見いだせる様になりました。あんなには口コミから奈良で保育園が探せるとはいえいつかまたお会いする事があれば、お礼が言いたいです。
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幼稚園の先生のさりげない気づかいのおかげで通い続けられました
私が幼稚園児のときは大人になった今よりも人見知りが激しく幼稚園バスが迎えに来ると「行きたくない、おうちにいる」とごねていました。奈良の大和高田で採用できる保育士はそれでも何とか幼稚園には通っていたのですが、たまに急にホームシックになり泣いてしまうことがありました。そんなとき先生がやってきて、「みんなで絵本を読みましょう」といって私をだっこしながら小さな図書室にいって私の好きな絵本を読んでくれたのが今でも記憶に残っています。この奈良では保育園の評判が良いので先生の膝の上の特等席で絵本を読んでもらうといつの間にか泣き止んで落ち着きを取り戻していたと思います。そのあとは図書室に集まって絵本を一緒に読んでいた子供たちと遊んだりしていました。今思うと私が図書室が好きなことなどを先生はどこからか見て知っていたのだと思います。泣きだしたら絵本を読むと落ち着くということも先生同士で教えあっていたのかもしれません。先生たちは普段は特に私のことを見ているような気はしていませんでしたが、しっかりと見ていてくれたのだなぁと思うと、今でもとても心があたたかくなります。ホームシックになりがちな気弱な私が幼稚園に通い続けることができたのもそういった先生たちの何気ないケアのおかげだったのだと今は感謝しています。
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給食で苦戦していた幼稚園時代に救われた言葉
かなり昔の話になりますが、私の通っていた幼稚園では週に2回給食がありました。奈良でも評判の大和高田の保育園では私はかなり小食でさらに偏食もある子どもで、給食が鬼門でした。お弁当の日は母が好きなものを食べれる量だけ入れてくれたのでよかったのですが、給食の日はそれだけで気分が沈んでいました。評判の保育園は奈良でも先生からは「半分は食べなきゃダメよ」と言われていて、その半分がまるで拷問のように感じていたのです。周りのお友達もなかには給食を食べきれない子もいましたが、私ほどに苦戦しているようには思えませんでした。そしていつも給食の時間は最後まで残されて、小さいなりに屈辱感も味わっていました。そして私は好き嫌いなく食べられない自分はダメなんだ…といつしか思うようになっていました。そんなとき、幼稚園に見習いの若い先生が入りました。まだ担任はもたず補助としてついていたので、給食が食べられなくて残されている私につきそってくれました。その時にその若い先生が「私も嫌い物たくさんあるの。大人になって食べられるようにはなってきたけど今も本当は嫌いなものたくさんあるよ。頑張って食べててえらいね」と言ってくれたのです。食べられないことに関して自己嫌悪を感じていた私は、大人は何でも食べられて、そうでなきゃ大人になれない・・・くらいに思っていたので目から鱗でした。そしてはじめて気持ちをわかってくれた先生が現れて、嫌いなものがあってもよいんだという気持ちにもなり、その後も給食で苦戦はしながらも気持ちは格段に楽になったのです。子どもの世界は狭く、言われることがそのまま真実です。そのため「私も嫌いなものあるんだよ」と言ってくれた先生に今でも感謝しています。
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「弟の靴下まで編んでくれた先生の事は一生忘れません!ありがとう!」
こんばんは。僕は31歳の男性です。現在の職業としてはフリーランスのライターとして活動中です。神戸でもインターナショナルスクールといえるものには僕が幼稚園だった頃のエピソードで、とても嬉しいエピソードがありますので今日はそのエピソードについて記事を執筆していきたいと思います。僕は身体が弱くて幼稚園の年長からしか行けませんでした。とても周囲から孤立していた僕でしたが、そんな僕に対してまるで母親のように接してくれた先生がおりました。その先生のお蔭で孤立することもなくなり、すぐに友達ができて楽しい幼稚園ライフを送っておりました。岡山でおすすめの根管治療ならここ以外にはもっとそんな時に僕の母親が妊娠をして弟が出来たということが分かりました!この時は「僕にも弟ができるんだ!」と思って嬉しかったことを昨日のように覚えております。あまりにも嬉しくて、先生に言ったら「そう!良かったわねぇ~!おめでとう」ととても喜んでくださいました。そして、それから3ヶ月後に出産をした母親でした。落ち着いてから先生が、「これお母さんに渡してね」と言って可愛らしい包みをくれました。それを母親に渡したら母親は嬉しくて泣いておりました。すぐに幼稚園に電話をしてから、次の日に先生に会いに行ったそうです。母親は「先生はとても子供が好きな人なんだよ。●は先生を大切にしないとダメだよ」と言っておりました。母親は今でもこの時に先生が手作りで編んでくれた靴下を大切に保管しております。この間、コンビニで先生に偶然お会いして、この時の靴下の事をお話したら、とても喜んでおりました。そして、「コロナに気をつけようね!」という感じでお別れしたのですが、今でも子供が好きとかで幼稚園に非常勤で働いているらしいです。このような先生は本当に生徒や保護者からするととても素敵な先生ですし、大切にしたい先生だと思いました。
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息子が通った幼稚園の園長先生の思い出
私たち夫婦は、シンプルなファッションが好きなので、子供も自然とそのような洋服や靴などを選びがちになってしまっていました。しかし、おおくの保育士を大和高田で採用するならばと幼稚園のお友達が戦隊ものの靴や洋服を着ていると欲しいとお願いされていたんですけど、そのまま流してしまっていました。ある日、私の祖母と息子と買い物に行ったときに、戦隊もののスニーカーを買ってきたんです。すぐに履けなくなるからと、少し大きめのサイズを。おすすめの医院、歯科医院を探すならメディカルゲートだと息子は大喜びでしたが、サイズが合わずに転んだら危ないからと園には履いていかない約束で寝たんです。息子はぐずっていましたが。次の日、幼稚園に行くのに、息子が先に車に乗り、いつも通り、出発すると、そうです。戦隊もののスニーカーを履いてきてしまったんです。園の駐車場で息子を怒ると、大泣き。しかし、時間になったので、そのまま教室に送ると、泣いている息子を見て、園長がやってきてくれました。こんなバイリンガルスクールでは神戸で多くの事情を説明すると、笑乍ら、分かりましたと言い、そのままお願いして私は帰宅。転んでいないかなと心配になりながらも、迎えの時間が来たので行くと、歩きにくそうですが喜んで靴をみんなに自慢している息子がいました。一人で奈良で話題の保育園を大切にしたいといって園長先生が踵の部分にティッシュを詰めてくれたので、朝よりは歩きやすくなったようです。親がいいと思ったものを必ずしも子供がいいと思うわけではないこと、また息子が曾祖母と出かけたときの話、靴を買ってくれた話などを嬉しそうにしてくれたと話てくれました。違うなと思っても、怒らないでなんで息子の話を聞いてあげられなかったのかと反省して、子供の気持ちを考えて、より行動するようになりました。
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幼稚園の先生との私の最初の思い出
私の幼稚園での先生との思い出は、本当に自分で覚えているのか、母親から聞いたのを覚えていると勘違いしているのか定かではありません。しかし、根管治療でおすすめの東京の歯科医院はどんなに頑張っても幼稚園の先生について思い出すとき、暖かく、穏やかな気持ちになります。私が覚えていると思っている、幼稚園の先生との最古の思い出は、私が、幼稚園の園庭に植えてある、バンジーなどの花を、雑草と間違えて抜いてしまったとき、「それはお花だから抜くのやめようね」と優しく注意されたことです。家で、母親が雑草を抜くのを手伝いしていたので、その習慣で、抜いてしまったのだと思います。母親の怒り方と違って穏やかで、子どもに響く声の掛け方が分かっているような、優しい注意でした。それから、ここでエレメンタリースクールなら神戸ではほんとは私は花と雑草の違いを気にするようになった記憶があります。先生は、母親にそのことを伝えるのですが、その伝え方も穏やかだったようです。母親が、こうやって言ってたよ、と真似をして今でも笑い話としてよく話すので、それを覚えています。「お母さん、怒らないでくださいね、怒るようなことじゃないんです。でも、おかしくて。昨日、園庭の花を、綺麗にしなくっちゃと言って抜いていましたよ。」と優しく伝えてくれたそうです。